29歳現役おひとり様。

29年間のあれやこれや

日常は続かない

その後、葬儀のあれこれが終わる頃には

母とは元通りになったし、




父がいない以外はすっかりいつもの生活だった。





私が中学三年生になり、

大学生になった兄は一人暮らしを始めた。




兄とはとても仲がよかった。




家にいた頃は、怖がりの兄のお風呂や

トイレについていってあげたり、

二階に一緒にあがってあげたりしていた。



小学生の頃は、一緒におまつりにいったり

雪が降ったら庭でかまくらをつくったり

朝からゲームしたりしていた。



ケンカらしいケンカもなかったと思う。



友だちの多い兄が泊まらせた賑やかなへやの隣で、

眠りにつくのも実は嫌いじゃなかった。






父が亡くなるときも、一緒にいて同じ目線で話をできたのは兄だった。






高校生の頃、帰省した兄に、駅まで送ってもらったこと




サンタさんがこなくなった日、

一緒に確認しあったこと、






全部、ぜんぶ覚えているのに






もう声が思い出せない。







兄が死んだのは、

わたしが高校二年生のときだった。

起源は、

最近、性に奔放な人たちを題材にした漫画をみていると、



私もなるべくしてなったのだと、

思わざるをえなかった。






家庭環境。




育った場所、帰る場所があるというのは

それだけで人を真っ当にするのだと。





その逆もまたしかり。







始まりは、父の死だったといま考えると思う。








中学二年生のときに、父が病死した。






それなりに反抗期だったりしたけど、仲はよかった。


だからもちろん悲しみもあったが、そのときは現実味がなさすぎて、なんだかよくわからなかった。




涙もあまり流さなかった。






病室へ見舞いに行っても、

なんと声をかけたらいいか考えてしまうような

少し聡い子どもだったようにも思う。





だから、父の死自体が私に与えた衝撃はそこまで大きくなかったと思う。






それよりも、



母が口を聞いてくれないことの方が

わたしには心に残っていた。






大きな声をあげて泣く母。





会話もしない、目もあわない、

余裕のない母。






何の役にもたたない子どもの私。



忌引期間を退屈だと思うような薄情な私。








そして、


励ましよりそう4歳年上の兄。





なんでお兄ちゃんとは話をするのに、と。

すぎていく

どうにもならない悲しみも、涙も、

とりあえずはおわった。




感情なんてあっけなくおわっていく。




それでも、




何気なく歩いている中の景色で、




見る気もないのに流れてるテレビで、




仕事中だって








こんなに共有したいことってあったんだと





それが言えないことよりも、





もうそう思っていたのが自分だけなんだと

それが寂しくてしかたない。








どんだけ大切なものも

いつだっていくつだってすぐに奪われることを

ずっとずっと知っていた。






だから簡単に大切にはできなくて




流れに身をまかせているようにごまかして






そうやってこんなときに、

ほらやっぱりって思えるようにしてた。








だからもうわたしにはよくわかんなくて、





あれは手放してはいけないものだったのだろうか。








強く望めば繋がっていられたのだろうか。